母親のこと

 歳を取ったので母親のことは通常、“ばあさん”と呼んでいる。

 ばあさんのことは、一度この随筆で書こうかと思ったことがある。
 なぜなら、私から見るととても尋常な人間に思えないからである。一度世間に問うてみたかった。異常か、異常でないのか。

 母親は、私が3〜4歳の時からしばしば今の鍼灸治療院に行っていた。連れられて行っていたから覚えている。鍼を刺されて痛くないのか、と考えていた。私が3〜4際の時と言えば、ばあさんは32〜33歳である。特に仕事はしていなかったと思うので、今考えると普通ありえないであろう。
 私が小学校、中学校、高校時代は自分のことに忙しい事もあり、母親の状態はあまりよく覚えていないが、母親が風邪で薬を買ってきてくれというので、薬局に行って“改元”を買おうとしたら、いつもの普通サイズがなく、大箱しかないからそれを買って帰ったら、いきなり「なぜ大きいのを買ってくるんだ」と投げ捨てたのである。家は貧乏だったので、予想外の出費で怒ったのであろうが、これが小学生の子供に対する態度か。

 ある日、学校から帰って、マホービンの冷たい水だったか、を飲もうとしてマホービンを傾けたらガシャと音がして中のガラスが割れた。昔のマホービンは真空?二重構造のガラスで出来ていたと思う。母親がその日に限って、氷をびっしり詰め込んで、水をほとんど入れていなかったので、マホービンを傾けたら氷が滑って中のガラスが割れるのは当然である。それを自分の責任は棚に上げて私を怒るのである。

 母親は、私の記憶のある限り、ほとんど一年365日、体のどこかが悪いと言って薬を飲んでいた。

 4〜5年前に脳梗塞もどきを起こしてからは、一日中血圧の話をするのである。家庭の団欒でも自分の朝の血圧、昼の血圧、夕方の血圧の話ばかりである。血圧の話をしない時は、ニュースで報じられた残酷な話題、首が切り落とされた、手足がない死体の話とか、正に団欒にふさわしくない話をするので年に何回かは、いい加減にしろと怒鳴り上げていた。

 こんなばあさんであるから、私の子ども達も心底から嫌っていたし、親として充分にその気持ちが理解できるので、食事を一緒にするのも強制できなかった。
 ばあさんと同居した我が家には楽しい団欒はなかった。

 2〜3年前は少し気分が悪いと自分で救急車を呼んで済生会病院に入院するようになった。家に帰ってみたら、ばあさんがいないので探していたら、済生会病院から電話が掛かって、入院手続きがあるので来てくれと言う。行くと大体既に点滴をしながら元気に病院内を歩いている。病院の話を聞くと脳梗塞の再発を疑ってMRI検査をしても全く異常はないという結果で一週間程度入院して退院のパターン。
 このようなことを4〜5回は繰り返しただろうか。
 私は、入院手続きの時に以前、精神科に務めていたという看護婦に食って掛かった。「勝手に救急車を呼ぶうちのばあさんも悪いが、何度も何度もワンパターンでMRI検査をする病院のやり方もおかしいのではないか。うちのばあさんは、体ではなく頭がおかしいのであるから精神科に連れて行くべきではないか」と。残念ながらその済生会に精神科はなかった。私は看護婦さんに言った。「ばあさんは私が言っても聞かないが、医者から精神科か、神経内科に行くように勧められたら言う事を聞くからそういう風にして下さい」と。

 ある日、ばあさんが医者から神経内科に行ってみたらと言われたと私に言ってきた。嫁さんが色々調べて非常に丁寧な対応をしてくれる病院を探して、そこに行くようになった。薬を飲み始めたが、その効果はてき面であった。ぱったりと血圧の話をしなくなった。仏様も拝まなくなったが。自分でも何だか細かいことが気にならなくなったとご機嫌だった。これ以降、一度も救急車を自分で呼ぶことはなくなった。しかし、これが逆に今回の事態を招く遠因になろうとは。

 ばあさんのもう一つの特徴は絶対に友達ができないことである。病院に連れて行ったときに離れてみていると近くの人間に直ぐに話しかけるのである。そして、自分の体の不具合を延々と一方的にしゃべるのである。絶対に相手にしゃべらせる機会を与えない。一方的に自分の悲劇、体の不具合を話すのである。だから、友達もできない。散歩友達ができそうになっても直ぐに合わなくなる。相手が嫌っているのかというと必ずしもそうではない。ばあさんの方が拒絶したりする。

 最近は骨も脆くなってほとんど部屋でゴロゴロして、黒いノラ猫を家に入れて遊び、夕方にマックスの散歩に行くのが日課になっていた。
 若干の尿漏れがあるのか、いつの頃からか自分でおしめを買って、利用するようになった。ただ、節約で取り替える回数を減らしているのか、おしめの性能が良くて、漏らしているのに気がつかないのか、ばあさんの部屋に尿のにおいがするようになった。そこで私が、おしめの取替え回数を増やすように注意するのであるが、ちゃんと取り替えているといって言う事を聞かないのである。では、頭が少しボケているのかと言うと常に自分の内面を注視しているだけあって頭は鮮明なのである。歳を取って頑固になっただけか。可愛げがないのである。

 こんなばあさんであるが、一つだけ感心したことがある。両親とじいさんが亡くなる前の看病は熱心であった。ばあさんの両親は島根で亡くなったが、病院に泊まりこんで親のベッドで一緒に寝ながら看病した。
 じいさん(私の父親)が平成4年に胃がんで亡くなった時には、車酔いするにもかかわらず毎日電車に乗って、冷やしたそうめんなんかを持って延べ1年以上見舞った。ばあさんは元々車酔いが激しいから交通手段を使ったちょっとした外出も酔い止め薬を飲む。毎日酔い止め薬を飲んで自分自身の体調も良くなかっただろうが、その苦痛を私達には一言も言わなかった。ばあさんが看病する姿には頭が下がる思いがした。

 ちょっと看病する分には何ともないが、毎日6時間程度、1年以上付き添うというのは並大抵の意志でできるものではないと思う。
 雨の日も嵐の日も、ばあさんは暑さに弱いのであるが猛暑の日も電車に乗って片道1時間弱の病院に通った。
 ちょうど長男が3歳程度だったか、見舞いに連れて行くとじいさんのベッドによく入り込んだ。
 ばあさんは、じいさんの体力が消耗すると心配したらしいが、私はじいさんが長男を非常に可愛がっていたのでするにまかせた。

 80歳も過ぎて、マックスの散歩にも行けなくなった時期もあったが、最近は復活して夕方のマックスの散歩にも行っていた。
 今年の3月6日(土)に島根でばあさんの姉が亡くなった。89歳だったか。ばあさんは次は自分の番か、と周囲の人間には弱音を吐いていたようだが、私には何も言わなかった。
 ちょうどその前後からばあさんは下痢気味になって食欲が無くなってきた。家族の者も少し下痢気味なこともあったので風邪交じりかと考えていた。食欲がない時はおかゆなんかを食べていた。マックスの散歩は8〜9日頃まではまだ行っていた。
 3月11日(木)の夜は風呂に入る為に着物を脱ぐのに廊下でてこずっていたが、いつも通り一人で風呂に入った。しかし、ちょっと体調が悪そうに感じた。

 翌3月12日(金)の朝、私はいつも通り会社に行ったが、どうもばあさんの具合が気になって会社から家に電話をするが、全然でない。
 予備校の入学手続きに行っていた娘に電話して、家に帰ったらばあさんの様子を確認するよう指示する。暫くして、娘からばあさんが動けなくなっていると連絡があり、直ぐに家に帰り、済生会にするか、どうか迷ったが、近くのS病院に車で連れて行く。歩けなくなっていたので病院玄関前から室内の車椅子まで抱かかえて連れて行ったが、その重いこと。ばあさんの意識はしっかりしており、若干腎臓機能が低下しているが、脱水症状との診断で点滴を始めたら顔色も劇的に改善し、病院は1週間程度の入院と診断した。

 ばあさんは、これまで何度も入院しているのでこちらも入院手続きは慣れているつもりであったが、現在飲んでいる薬を全て持っていくのは面倒である。なぜなら、ばあさんは済生会から脳梗塞の予防薬、神経内科からもらっている抗うつ薬、近くの病院からもらった血糖降下薬のダオニール等、古い薬袋も大事にとって余った薬を中に入れているのでどれが現在飲んでいるのか、さっぱり分からない。入院手続きと準備の為に家と病院を何度か往復しながら、ばあさんに「どれが今飲んでるのか、分からんじゃないか!」と病室内で怒鳴り上げた。これが意識のあるばあさんにしゃべった最後の言葉となった。なんてこった。

 3月13日(土)は家の用事で忙しかったので嫁さんが病院に見舞いに行った。かなり回復してフードプロセッサーで粉砕した夕食を美味しいと喜んで全部食べたと言う。ところが、翌日の3月14日(日)の朝、7:20にS病院からばあさんの覚醒が悪いから直ぐに来てくれとの電話。

 行ってみると入院時にあまり感じが良くないと思っていた医者がかなり動転している。朝、目を覚まさないので検査してみると血糖値が24mg/dLまで低下しており、ブドウ糖を点滴するが血糖値が上がらないと言う。脳内の異常の有無を調べるためにCTを撮ったが異常はない。但し、脳梗塞の場合、梗塞直後はCTでは判別できないので、どうするか?と言う。どちらにしてもS病院ではどうしようもない状態なので、MRIもあり、これまでも何度も入院している済生会に転院することにした。

 済生会ではICUに入った。かなり危ない状況で医者がどこまで延命治療を希望するかと聞いてくる。
 中々厳しい問題である。薬物による治療は最後までしてもらいたいが、心臓マッサージや人工呼吸器等の物理的な処置はしなくてよいと返事した。

 数日で血糖値は正常に戻ったが、意識も戻らず体もほとんど動かなくなった。ICUに居る時、一瞬目が合って、何かを訴えようとしているように見えたが、気のせいだったのかもしれない。病状が安定して、一般病棟に移った。酸素マスクも不要になり、呼吸も安定した。医者から正常に戻ることは多分ないだろうといわれたが、徐々にこちらと目を合わせるようになり、体も徐々に動かすようになった。車椅子に座った時には、私を目で追いかけることもあるようだが、私だと分かっている様子はない。

 済生会から転院するように言われた。家の近くの病院を3つほど紹介された。元々入っていたS病院は2〜3ヶ月しか受け入れないとの事なのでY病院に説明を聞きに行った。Y病院は療養型病院で済生会は急性期治療の病院なので病院の役目が違うこと等の説明も聞いた。説明は丁寧で病床の見学もした。病院内は明るい雰囲気で開放的で広々としていた。ただ、入院しているのは動けなくなった相当な高齢者が多かった。分かりやすくいうと老人の最後を看取る病院か。入院費はオシメ代や洗濯費も等も含めて月に12〜14万程度掛かると言う。こんなに掛かって普通の人は入れるのだろうか。

 ばあさんが、入院して残念ながら家の中が明るくなった。淋しいことではあるが、多分、家族は誰もばあさんが再び家に戻ってくることは望んでいない。仲のよい家族で労力があれば多分、家で面倒を看ることも可能だろうと思う。

 私の先祖は代々親子の仲が悪いように聞いている。愛情も薄いのかもしれない。
 私から見ると母親は非常にマイナスのイメージが強いが、私がその遺伝子を引き継いでいるのも事実である。

 ばあさんの部屋から私と嫁さんに対する感謝の言葉を書いたメモが2通出てきた。いつ倒れるか分からないのを覚悟して準備しておいたのであろう。
 お互いに素直になれない人生だった。
 見舞いに行っても自分を認識しているのか、否か、分からない。しかし、今なら自然な心で話しかけられる。皮肉なものである。

 私は3人兄弟の末っ子である。じいさんもばあさんも老後は私に看てもらいたいと小学生の頃から言っていたので、いつの間にか私が親を看るのは当然と思っていた。しかし、ばあさんと同居して子どもに良い事は何も無かったように思う。ここまで子どもに嫌われるとは尋常ではない。私がいないところで子ども達にあれをしろ、これをしろとうるさかったらしい。うるさいだけでなく、挙句の果てには罰が当たるなどと脅迫まがいのことまで言っていたようである。

 これからばあさんが、良くなるのか、変わらないのか、分からない。低血糖脳症。

 私は戦国大名では、真田家が好きである。同時代の親子兄弟が利害関係で動く中で、真田家は親子兄弟の心が通じていた。徳川方と大阪方に別れたが、心は通じていた。親子親族が一致団結する姿にあこがれる。私と周囲に無いものにあこがれているのだろう。

(2010年5月4日 記)

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